死と再生、古代から変わらない
願いと祈り。
土偶は、そのほとんどが完全な状態ではなく、どこかが欠けて出土します
それがなぜなのか、はっきりと分かっていませんが「死から再生を願う」祈りの道具だったからではないかという考え方があります
足が欠けた土偶は「死」を意味すると思いますが、
そこには決して後ろ向きではない「期待」という、希望めいたものを感じます。
欠ける、というアクションと
欠けたところからでなければ生まれないもの。
死者が転生してほしい。春になったら作物がまた豊かに実ってほしい。
そんな祈りが込められていたのかなと思いますが
私は、自分の劣等感や葛藤の中から生まれるもの、つまり「欠けたところからしか生まれないもの」を期待しています。正確に言えば何一つ欠けてはいないのですが、この劣等感や葛藤が人生のエッセンスになっている。
元々備わっていたら、当たり前すぎて意識されないもの。「祈り」は「意が乗る」とも言いますが
そこに「祈り」はありません。
欠けた足から生まれているものは、光り輝く、魂が成長しようとする姿。それは希望と言い換えてもいいのかもしれません
祈りは人それぞれでも、たとえ時代を超えても、根源的に求めているものは変わらない。
そんな気がしています