2月15日、ある映画の全国同時上映会に参加しました
-768x1024.jpeg)
「カンタ!ティモール」というドキュメンタリー映画です(予告編の動画はこちら)。
本当の「自由」とは何なのか、
「私たち人間はこれからどう生きていくのか」ということを
人間の尊厳を極限まで奪われた、東ティモールの人たちが教えてくれました。
2002年にインドネシアから独立を果たした東ティモール。
この国の多くの人たちが長きにわたり受け続けた、理不尽な軍事侵略。
目の前で家族を殺され、性的暴力を受け…いまも身体に、心に消えない生々しい傷跡。
これが「日本と無関係ではなかった」と知り、ショックを受けました。
おもに石油などの天然資源が豊富な東ティモールをめぐり、
日本は軍事侵攻をしていたインドネシアに諸外国よりもダントツに多くの支援をしていたのです。
戦争を産み出すことで利益を得た人間もいたでしょう。
私たちが豊かさを享受していた裏側で、こんなにも苦しみぬいた人々の犠牲があったのかと・・。
でも、この映画を観て同時に思いました
「果たして私たちは東ティモールの人たちよりも自由で、豊かだと言えるのだろうか」と。
「寝返れば、なに不自由ない生活を約束する」と
軍事侵攻していたインドネシア軍から、お金と武器を受け取るよう勧められても、
独立運動であらがう東ティモールの人々は断り続けたそうです
どんなに非人道的な目に遭わされても。
「3世代くらいは、それで良いかもしれない。
でもそれは何千年と続いていくものではない。
自由とは、そういうことではない」と。
東ティモールのある村に、ワニが住んでいます。それは彼らにとって神様です
「良いおこないをしていれば、噛まれることはない。そういうものだ」と。
もし、村人を噛んだらワニに制裁をしないのか?
彼らは言います
「ワニが噛むのは、私たちの「あり方」に問題がある。怒るのは神がやることで、私たち人間がやることではない。
人が人を裁くものではない。
人間がやることは、『弔い』と『祈り』だ。」
インドネシア軍を捕まえても、彼らは自分たちが受けたような行為をしなかったそうです。
代わりに自分達の思いを話して聴かせ、無傷で軍へ還したのだとか。
それがいつしか一部のインドネシア軍の心を動かし、
一晩でカタがつくと思われていた軍事侵攻は、じつに24年間続き
ついに東ティモールは独立するのです。
この映画監督の広田奈津子さんは言いました
「人間の判断はへっぽこです」と。

わたしたちが行動したことの結果は
「もっと大いなるものが決める」と彼らは考えている。
では何を決めるのか。
それは「大自然の法則に沿っているか、否か」ということなのでしょう。
東ティモールの人たちには、その精神性が根付き、息づいているのです。
それは私たちがいつしか忘れてしまったこと。
おそらく縄文時代にはあったもの。
私たちは大自然とともにあり、
何万年と繋いできた命があり、その先端に私がいて、その私も循環の一部、ということ。
どんなに酷い目に遭っても、インドネシア軍の目先の誘いになびかなかった理由。
それは本当の「自由」、本当の「安心」を知っていたから。
それは「自分が死んだら終わり」「死が失敗・敗北」ではないということ。
自分で終わりではない。
何千年・何万年も続き、循環している命の一部。
それが「頭で理解」ではなく「肚落ち」しているのだと思うのです。
東ティモールには「甥・姪」などの分類がないそうです
すべて自分たちの子供。大切な宝物。
一口飲んで喉を潤すこの水、この大地、あの山…
憎いインドネシア軍、その片棒をかついだ日本人さえ、
「この世界はすべて自分」なのです。
これだけ凄惨な経験、何も感じないわけでは決してない。むしろ忘れられる日など1日たりとてない。
だけど、人間のへっぽこな判断で誰かを裁くものではない。
そんな「見えない世界」が、彼らのすぐ横に寄り添い、
「もっと大きなもの」が包み込んでいるように感じました。
だから裁かず、弔う。経験と思いを積み上げてきた先祖を思い。
ただ、祈る。悲しみを繰り返さないために。
映画鑑賞後のトークセッションで、広田さんの言葉に私は涙が溢れました
「頭で考えた何か、ではない。
命の源から湧きあがるもの、
自分を超えた何かに突き動かされることに従ってください。」
なぜ涙が出たのでしょう。
私はそうしたい、そうしてきたと思いながらも
「頭で考える自分」との間でいつも揺れているから、なのかもしれません。
それこそが本当の自由だと、魂は分かっているのに。
そして、ある例え話もされました
8匹のネズミを、なに不自由なく暮らせる場所で飼育する実験をしたところ、
最大2200匹まで増えたネズミたちは猛スピードで減り始め最後には全滅した、という実験があるのだとか。
環境的にはもっと増えても問題ないはずなのになぜ、何度試しても、何不自由ない環境でネズミは全滅したのでしょうか。
大切な人を殺され、何十年も続く独立のための極限状態でも、インドネシア軍が差し出した「何不自由ない暮らし」を断り続けた東ティモールの人々が知っている「自由」。
そして私が考える「自由」。
そこには全く違う世界が広がっているのではないでしょうか。
私たちは「自由」に生きているようで、
おのずから湧きあがるものに蓋をして、檻のなかの自由を謳歌しているに過ぎないのかもしれません。

目の醒めるような映画でした。
こういった紛争には様々な歴史や思惑が絡んでいるかもしれませんが、
これからますます大切になる「目に見えない世界」の本質を感じました。
「目に見える世界」「物質的豊かさ」を否定するわけではありません。
そもそも私たちには肉体があるからです。
これから大切なのは「そのバランスを取ること」だと思っています
精神性がいかに豊かであるか。いかに気高く、自由であるか…
その「あり方」が土台になってはじめて、物質的な豊かさがある。
それこそが本当の自由・本当の豊かさなのではないかと感じています。
それは「大自然」から学ぶこと。
繋いでくれた命を想う、弔いと
これから先の未来を思う、祈り。
東ティモールの人々、そして縄文人がおそらくしてきたことを
わたしたちは思い出していく必要があって、いま
この映画を私は見ているのだと感じました。
言うは易し、行うは…ですが。笑
さいごに、もうひとつ私が泣いてしまった言葉を転載させていただきます。
監督の広田さんがこの映画を作るキッカケとなった人物、アレックスの言葉です。
-768x1024.jpeg)
「たとえ仲間が10人にしか見えなくて
対するものが あまりに大きく見えても
いのちがよろこぶ仕事には
亡くなった人たちも
生まれてくる人たちも付いてくる
それは1000どころじゃないんだ
ぜったいに大丈夫だから
恐れずに進んでください
途中でいのちを落とすことがあるかもしれない
それでも 大丈夫だから 恐れないで」