「吉原の花魁(おいらん)だった前世がある」
ということがわかったのが、つい数日前。
「やっぱり吉原神社へ行こう」と思ったとき
誕生日に、ぽっかりと予定が空いていました
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私がはじめての個展を開催させて頂いた浅草からほど近い吉原には、
何かしらのご縁があると感じていました
そして今年、2025年大河ドラマ「べらぼう」の舞台が吉原。
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私が大河ドラマを見始めたキッカケは、2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」でした。
それは私の実家・遠州(今の静岡県浜松市)が舞台だったからです。
その時の脚本家・森下佳子さんが直虎以来8年ぶりに脚本を手がけること、
キャスティングも当時と重なっている俳優さんが多いことも親和性を感じていましたが
ここにきて、自分が吉原の花魁だったことがわかるとは…
私の人生、ますます漫画みたいになってきました笑
「前世とか、そういう話が受け入れられない」という方もおられると思いますが
ここからは、そういう話です。
前世の私は、吉原の遊女のなかでも客を呼べる売れっ子、「花魁(おいらん)」でした。
そのお客の一人が、魂の伴侶と呼べる男性だったのです。
男性は外国から物を仕入れて売ったり、日本のものを外国へ売ったりする貿易商をしていました
男性は子供がいませんでした。唯一の家族である妻とは折り合いがつかず、家には居づらく
吉原の花魁である私のところへきては、歌や和歌、三味線などに癒されていました
魂が同じなので、感性が合う二人だったのです。
彼は私の芸事の才能を伸ばしたい、もっと世に広めたい、と考てくれていました
「もっとこうしたらいい」とアドバイスをくれるのですが、
「遊女である自分がそんなことで身を立てることなど、できるはずがない」と
あきらめと持ち前のプライドから、彼の言うことを聞きません。
私は遊女ですから「そんなことよりも女性として自分を認めてもらいたい」と思いますが
彼はそういうことには興味がなかったようです。
私は「なぜ他の客は喜ぶのに、彼は違うのだろう」と悩み、
「女性として認められない。つまり自分のことを愛してくれないんだ。もういい」と、
別のお金持ちのところに身請けされることを選びます。
ほんとうは彼は、男も女も超えたところで自分を愛してくれていたのに。
身請けされた先は、何不自由ない生活。衣食住には困りませんでした
でも、身請けされた男性とは感性が全く違う。会話、趣味、飾ってある絵・・
魂の伴侶である彼に、もう会うこともできません。
生きていくには困らない。遊女としてはこの上なく恵まれていましたが、心は死んでいました
私は本来の自分を殺し、別人格で生きることを決め、その生涯を終えたようです。
「女は、もうさんざんやった」のです、遊女として。
だから今世、私は「男か女かわからない状態」「むしろ男」で、40年以上生きてきました。
でも私は、女性として生まれてきた。
そんなに女性がこりごりなら、男性として生まれてこればよかったのに
どうしてまた、女性として生まれてきたのか。
それはもう一度今世で「女性」を取り戻し、
女性を取り戻した上で、「魂が喜ぶことをする」。
それは自分の命を大切にすること。
女性としての尊厳を取り戻すこと。
そこから初めて、男でも女でもない世界、「芸術の表現者」となって生きたい。
そういう強い思いがあっての今だと、思うのです。
遊女の供養塔、吉原弁財天…そういった場所を巡ってみると、胸が苦しくなりました
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女性として、人としての尊厳が失われた歴史を、
過去の自分を、私は見るのが辛かった。
でも私は最終的に、ここに来なければいけなかったのです。
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吉原神社でご祈祷をお願いすると、女性の神主さんが(珍しい)
「ご祈祷のお願いは何にしましょうか?」と。
そういえば何も考えていなかった。
「あの、この土地にご縁があったみたいで・・」
なんて、答えにならない独り言のようなことを口走りながら
自分の過去と、
自分と同じ境遇だった人たちへの弔いと、
その悲しみ、果たせなかった思いを無駄にしたくない、超えていきたい、という気持ちを
どう祈りに変換したらいいのか。どう伝えたらいいのか分からなかったのです。
そんな私の様子に「除災招福にしましょうか?」と提案していただいた時
「あ・・縁結びもお願いできますか?」
神主さんはいいですよ、とにこやかに対応してくださいました。
この吉原神社の御神木は「逢初(あいぞめ)桜」と言うそうです。
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逢い初める、とは
「恋焦がれる人と初めて出会う」という意味。
ご祈祷が終わり、お札などを受け取る時に神主さんが「縁結びの祈願をされたので」と
逢初桜のキーホルダーを差し出し
「また巡り逢えますように」と。

あやうく泣きそうになりました。
できるわけない、叶うはずない、会えるはずがない、いても一緒になれない、
この世界に本当の愛なんてない。
そう思いながら、おそらくあきらめの経験を何度も積み重ねながらも
どうして私はまた生まれてきたのでしょう。
今世でも似たようなことを繰り返しながら、
それでもなぜ今、ここまで辿り着いているのでしょう。
そう思う時、
過去の人たちの思いと、いま私が巻き込んでいる人たちと、この先を生きていく人たち。
そして、私の強い願い。
すべてが一緒になってここにあるような、そんな感覚を覚えるのです

つい数日前から「縄文はもう、いいかな・・」と思えてきたのは
「縄文」は、私が「女性」を取り戻すキッカケをくれたものだったから、なのでしょう。
そう感じるのは「女性」に戻ったいま、次の状態へRe-bornしていく
合図なのかもしれません。
すべては、愛。
とてもシンプルで純粋なものに触れたような、
弔いと祈りの誕生日。
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