実家でヨーグルトにしれっとあんこをのせて出された時はびびった。
でも、未知との遭遇も食べてみたら結構普通に美味しかった
帰って夫に話したら、あんこ文化圏の名古屋人も「なにその食べ方」と眉をしかめた
「そう思ったけど、意外と美味しかったよ」と言っても、眉間の縦じわは消えない。
多分「これを食べないとあなたは明日死にます」くらいの状況がない限り、彼は絶対口にしない笑
なんでもとりあえず口に入れる私と(乳幼児並)冒険は決してしない偏食の夫。
何でも食べられる私の方が守備範囲は広いので、献立や外食は相手に合わせてきた
「自分が合わせなきゃいけない」と思っていた
それで構わないと思っていたし
なんならそれが正義だったし
満足感もあった
でも正直心の中で「私に合わせてもらっている夫はずるいな」と思っていた
「一緒にいるならどちらかが相手に合わせなきゃいけないでしょう、だからあなたは私に合わせてもらっていいね」と。
けど、果たして相手はそれを望んでいるだろうか?
そもそも、私が不自由な状況を作り出していたのは
「相手ではなく全部自分」だとしたら。いや、「だとしたら」はなく本当に全ての出来事はそうなんだ
彼は、私が「不自由になりたい」がための役割を担ってくれていたに過ぎない。
私は「不自由なわたし」でいたかった(認めたくないけど)
言い訳ができるから。
「やりたいこともこの状況じゃ無理」
「檻の中だから」
「それが立派な妻だから」
「それが世の中の常識だから」
「私はこの中で自分の「役割」をちゃんとやってますから」
だから仕方ないでしょう?と
ポーズを取っていたいだけだったのかもしれない
檻の中はそれなりに心地よかった
それなりの役割を自分に与えて
外の世界を心配しなくていい
たとえ心のどこかで違和感があったとしても。
私に言ってくれた人がいる
「もう、その『役割』は終わってますよ、だからそろそろ降参しなさい」と。
「不自由な自分」「愛されていない自分」をずっとやってきたかったがために
周りにそうしてもらってきた。
ふと、気がついた
結局私の望み通りじゃないの、と。
これすべて宇宙的な愛なのかもしれない
だとしたらそもそも、私は広ーい意味で愛されているじゃないの。
もしかしたらそんな解釈で、いいのかもしれない。