日々、思うこと

骨折と、半世紀越しの気づき。

あっっという間に6月もなかばに突入です。2025年も折り返しに入りましたね。

めくるめく変化に体感が早い、早すぎるのですが…皆様はいかがお過ごしでしょうか?

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実は先月、骨を、折りました。

人生初骨折です。

ちょうど1月前になりますが

階段を滑り落ちたときにお尻からではなく、右肩から落ちたようで

瞬間「あ、なんか未体験の衝撃あった」と思ったのですが

CTを撮ったら綺麗に折れておりました・・。

今はおかげさまで、動かして良さそうな時期になってきたのですが

いろんな人から「肩甲骨って折れるんだ…?」とか、

看護師さんからも「あまり肩甲骨だけ折る人いないんですが…?」と言われ

ちょっと恥ずかしい思いをしております(恥

実はその数日前に、「ワタシは骨の1本か2本折れた方がいいと思うんです・・」と

言ってたんですね。

そうしたら有言実行したという。

意識と言霊というのは、オソロシイです…

でも、いろんなことを見直すきっかけになりました。

右腕が使えないことで、

着替えに普段の10倍くらい時間がかかったり、

できないことがたくさんあったり。

なんといっても普通に痛いですし。

痛みとか、不自由とか、病気とか・・ないに越したことはないのですが

そういう不調とは、ほぼ無縁だったわたしは「変な万能感」があって、

今こうして「何もないこと」への感謝ができなかったんです

5体満足に産んでくれた親、ここまで命を繋いでくれたご先祖への感謝、

今、やりたいことをやらせてくれている旦那さんへの感謝、

絵をお迎えくださった方、ご縁を繋げてくださった方、そして唯一無二の存在・・

ありとあらゆる人、モノ…本当はそういった見える存在、見えない存在がいてくださってこその、私なんですよね。

だから「何もない」というのはとても幸せではあるけれど、

「気がつけない」という、ある意味不幸なことかもしれないな、と思ったのです。

骨折してみて改めて、体に不自由ないということのありがたさと、

自分の体を雑に扱ってきたことを感じました…。

というわけで、今回は

「自分を大切にする、愛する、ということ」について。

私は「まったく真逆の勘違い」をしながら、

半世紀近く生きてきたのではないか・・という、気づきのお話です。

どうぞお付き合いください。

ズバリ、私は、愛を出すのがとても苦手です。

私は基本「なんでもかんでもやってもらってきた人」だったので、

誰かのために何かをしてあげられる人って、

本当に、すごいと思います。

私の尊敬する人で

「どうしてそこまでするの?」

という人がいて、

いつもお忙しくて、まさに「命を削って生きている」感じなんですが

私への対応も、とても丁寧なんですね。

丁寧というのは、言葉使いとか返信とか…そういうことでもあるんですが

ちゃんと言うことはいってくれるとか、「私のことを思ってくれているな」ということが感じられる方なんです。

そしてついには、私の人生をまるっと変えてしまった。

それは他の人に対してもそうで…。

「人、ひとりの人生に関わる」って、

ものすごいエネルギーがいることですよね。本当にすごいと思うんです。

いっぽう私は、

疲れるのが嫌

寝てたい

人生楽したい

人と真剣に関わりたくない。

そういう気持ちが今もまさってしまうので

「どうしてそこまで人のために行動できるのか・・」と。

その生き方を眩しく感じつつ、

いや、でも同じことは無理

そこまではしたくないな、と思ってたんですね。

だけど、そんな生き方にも憧れるから、

ちょっとやって「出してる風」「やってる風」をやる。

でもそれって、ただの「パフォーマンス」なんですよね…。

最近、「絵が描けない、出せない」と

なっている原因のひとつはそれだと、思っています。

今まで、表面上の「縄文風」をやってきたような気がしてきて、

(それもとても意味があったと思うのですが)

今までと同じことができないのです。

だから「骨の1本くらい折れてみたら何かわかるんじゃないか」と。

そうしたらゴールデンウイークの帰省後に、折れたという・・笑

骨折する直前のゴールデンウイーク、ワタシは浜松の、田舎の実家に帰省していました。

わたしが生まれた家は親戚一同が集まる場所で、盆・暮れ・正月…決まって、1週間以上の滞在は当たり前でした。

伯父はウチに来ると毎日お酒を飲み、皆がまるで自分の家のように過ごしていました。

その時両親はいつも全力でもてなし、お金も使い果たし…。

親戚が帰ったあとは決まって倒れていました。

私はそんな両親の姿を見て、「なぜそんなにやるんだろう…?」と思いました。

お金も、両親の愛も、みんな親戚に取られてしまうような気がして、内心ではいつも「早く帰って欲しい」と思っていました。親戚のことはみんな好きで、一緒にいたら楽しいはずなのに

「とられてしまう」という、思い込みのほうが強かったのだと思います。だから、

「出すことは損をするんだ!私はもらう側になる!」

おそらく私はこの体験から、そう思い込んだのです。

そして今年になって、親戚が何十年かぶりに実家に来る事になりました。

「もう楽しみで眠れない!」と、ひと月も前から興奮して、私にLINEしてくるんです。

そうして、相変わらずの両親のもてなしに心から喜び…本当に幸せそうに帰っていったのです。

その姿を見て、ようやく気がつきました。

両親がしてきたことは、「親戚みんなの、かけがえのない体験として、何十年も心に刻まれている」ということに。

その時、「私も両親のようになりたい」と思いました。

こんな、言葉があります。

己を尊ぶの極(きょく)は、ささげるにある」

まっったく理解できませんでした。

「出すことは損をする」。そう思って

受け取るばかりの人生を、半世紀近くやってきた私です。

「自分を尊重する、大切にする」ことは、とにかく「受け取ること」だと思ってきました

「自分を尊重することは、ささげること」だなんて…私にとって、真逆の法則です。

ですが、両親の姿と、この言葉が重なりました。

そこから私は、小さなことから「ささげる」ことを、してみることにしました

たとえば地図を見ながら、仲間を行き先に誘導する、

集まるお店を決める、

応援したいと思う人、お世話になっている会社を、時間や体を使って応援する・・

こんなこと、「ささげる」なんてもんじゃありませんし

当たり前に出来てしまう方にとっては「そんなこと」だと思うのですが、

ワタシにとっては、実はすごい変化なんです。

すると、これだけでも見えてきたことがあります。

それは「今までの自分」です。

やってもらって当たり前だった自分、

感謝できない自分、

約束をすぐに破る自分、

相手を尊重できない自分。

そして、

それはそっくりそのまま「自分自身を尊重できていない」

「自分自身を大切にできていない。愛することができていない」

…ということなのでは…?と思ったのです。

大袈裟かもしれませんが、

「生きているうちに、これに気がつけて良かった」

と思いました。

目に見える直接的な報酬ではありませんが、

今までの自分に気がつけたこと。そして、出すことで別の形で巡り巡って、

形を変えて何かをいただく、ということを体験するうちに

「本当の豊かさ」に触れたような気がしたのです。

この積み重ねが、

新たな作品を導き出す糸口になるような・・そんな気がしています。

GWに帰省しているとき、親に「どうしてそこまでして親戚のお世話をしてきたの」と聞いてみました。

何か強い思いでもあるのかな、と思ったからです。すると

父は「ただ、自分が長男だったから。」

母は「自分が長男の嫁だったから」

それをやらなきゃいけなかっただけ、と言ったのです

それを聞いて、

え?そういうものなの・・?と思いました

ただ、自分がそういう立場だから。

ただ、相手に喜んで欲しいから。

ただ、それが自分の喜びだから。

それが、やったら自分自身に還ってくるとか

そういう期待もなく、信念もない。

両親は「ごく自然」「当たり前」に、やっていたのだと思います。

この「自然」「当たり前」というのは、

「大自然」とも、言えるのではないでしょうか。

両親の「ただ長男だったから」、という答えから私が連想したのは「植物」でした。

ただただ、咲いて、枯れていく野の花のようだと。

野に咲く花に、おそらく志があるわけではないでしょう。

それでも、ただそこに咲いている景色に私たちは癒されます。

それは特に目立たず儚いものかもしれないけれど、「出し惜しみ」「我欲」「比較」…そういうものは、そこにはない。

だからこそ、私たちはその花の純粋な生命の輝きに感動し、心を動かされる。

そして景色に溶け込み、調和して、枯れてまた次世代に引き継いで・・

そうやって地球上の生物は調和し、循環している。

近頃わたしは「人間も地球の一部」、ひいては宇宙の一部、ということを意識するようになっています。

親、先祖を遥かに、遥かにさかのぼれば、、、それはすべて、人間も草木も鉱物も、

宇宙のはじまりにたどり着くと思うからです。

連綿と続いてきた大自然の営みと、親先祖のしてきたこと。

そんな壮大な景色を、感じてしまったのです。

それってとても・・淡々と、淡々として、果てしない、ロングスパンですよね。

私が「親と同じようになりたい」と思ったこと。

もしかしたら、親のおもてなしに感動した親戚も、そう思っているかもしれません。

私や、親戚にささげてきた親の命の輝きが、子や孫に引き継がれ、また誰かに引き継がれていく。

「愛の継承」という、

個人の一生を超えた豊かさ、というものの一端を感じたのです。

自分が出した愛が、すぐにかえってこないかもしれない。

生きている間に、自分にかえってこないかもしれない。

でも、それはおそらく、両親とご先祖さまからのロングパスで、私が受け取っているのです。

ある方に、こう言われました。

「あなたのご先祖様が、生前に徳を積んだんですよ。自分の作物を分け与えたり、誰かの相談に乗ったり・・

だからそのおかげで、あなたはとても恵まれているのだけど、それに気がつけない不幸もある」と。

また骨折したことについて、ある方にこう言われました。

「肩甲骨でよかったね・・頭とか、打ちどころが悪かったら危なかったよ」

親やご先祖様が、特に自分自身への見返りなどを求めていなかったであろう行いが、

今の私を、助けてくれているのだと思いました。

そして、私の出したものも同じように、未来へつながっていくのです。

この肉体も、親やご先祖様が、命を繋いできてくれたおかげであり

大きな循環の一部としてお借りしている大切な器・・

じゃあ、どうこの身体を使って生きようか…?

そういえばゴールデンウイーク中に宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」を放送していましたね

まさに、どう生きるか・・?

いま、そんな風に思うのです。

私は、親戚に向けられた親の愛が欲しくて、

それをずっと、半世紀もこじらせて

欲しい欲しい、とやってきました。親以外の人、すべてに対して。

「受け取ることこそ、自分を愛することだ」と勘違いして。

でも、それは本当の豊かさではなかったようです。

そんな気づきを得て東京に帰ってきたら、骨折して。

自分の体が、自分だけの体ではないような感覚になり

それを雑に扱ってきたことに気がつき、ますます骨身に沁みた。という・・

おかげさまで、気づきしかない・・私にとって、壮大な5月でした。笑

皆さんはいかがでしょうか。

半世紀こじらせまくってきた私よりも皆さんのほうが、自然に愛が出せるかもしれませんが・・

それでも、全ての人に言えることは

「自分を大切にすること、自分を尊重すること、自分を愛すること」は

なかなか簡単にできることではない、ということ。

でも、人類である以上『本当の意味で』自分を愛するということは

間違いなく、必要なことだと・・わたしは思います。

親やご先祖様、そして前世の自分は、時代背景や立場などもあって

なかなかやってこられなかった。でもそれを今、私たちが望まれてやろうとしている・・

人類の、マイナーチェンジではなく

フルモデルチェンジのために。

…そんな気がするのです。

その糸口やスイッチ、感じ方は

ひとそれぞれ…ですよね。

では、今回はこのへんで。

とりとめのない長い話になってしまいましたが、

いつもお付き合いくださり本当にありがとうございます。

また、お会いできることを楽しみにしております。

では、また!

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