梅雨とはいえ、夏日の晴れ間が続くここ最近ですね。いかがお過ごしでしょうか?
先日、料理研究家の土井先生がTwitterでこんなつぶやきをされていました
確かに笑
この「なんで料理するの?」の問いに対して、私の考えは
あぁ、これが「愛」かな、と思いました
私の最近感じる「愛」が、これと真逆だからです。
これは子育てや介護で時間がないなど、様々な事情で「料理やりたくてもやれない」「料理やりたくない」という方に対して「やってないのは愛がない」とするものでは決してなく、この表現は私にとって一つの例えに過ぎません。これはあくまで私の考え、私の正解とする世界ですので、どうぞご理解ください。
⭐️料理しなくてもいいと思う理由・・「いくらでも売ってる」「好きなように自分に合ったものを選べる」「安い」「おいしい」「満足できる」「手間もかからない」「合理的」「面倒くさくない」。
これを逆にすると、
⭐️「なかなか売ってない」「好きなように選べない(「これしかない」から)」「高い(そもそもどうしてそれは高いのか、逆にどうしてそれは安いのか?)」「美味しくない(表面上は苦々しく感じる。そもそも美味しいとは?)」「満足できない(そもそも本当の「満たされる」とは?)」「手間がかかる」「非合理的」「面倒」「したくない」「下手」。
うん、愛だな・・(ひとり勝手な解釈で納得)
私は正直、料理が苦手です。というか家事全般苦手です。もっと言うと人付き合いは得意だと思っていますが、おそらく意識の深いところでは苦手です。料理しなくてもいいじゃん、と思う人の気持ち、かなりわかります。
ただこの言葉を比較してみて「どちらがより相手を、自分を大切にしているか」。
料理はひとつの例えに過ぎず、人でも物でも出来事でも、向き合う対象に「どれだけ愛をもって、丁寧に接することができるか」。それを意識したいなと、最近思うんです。
以前のブログでも書きましたが「自分はこんなにも大切にしてもらえるんだ・・」ということを「体感として知る」って、本当に大事すぎるくらい大事です
私は目の前のことや人、何より自分自身に対して、どうも「雑」なところがあります
それは「合理的に」「楽に」「手っ取り早く」、「愛が欲しい」からなのでしょう
でもそれでは、私の場合はどこまでも満たされることはなく同じ事の繰り返し。
向き合う相手を、何より自分自身を大切にできていないからなんでしょうね
だから「非合理的」で「手間がかかって」「面倒で」「上手くできない」こと。
「それが「愛」だよ!さぁやってごらん!」と言われたって、とてもじゃないけどやりたくない
だって面倒くさいですもん。手間がかかるし、時間がかかるし、上手くできないし、わからないし・・あー考えたくない笑
でも、その「面倒くさい」「やりたくない」に、私の成長のヒントがあるはずで
今あえて「やりたい」と思う、その原動力は何か。
それはやっぱり「何かをとにかく好きだと思う気持ち」「損得なしで、無条件で愛してみたいと思う気持ち」という「女性性」が芽生えているから。
「非合理的」で「手間がかかって」「面倒」で。それでも自分に対して向き合ってくれる存在があることを体感として知ると「自分は大切にされている」「もうそんなに欲しがらなくても、充分もらっている」ことが分かってきて
そこで初めて、「与える」「愛する」側の景色が見えてくる気がするのです。そして私はもう、そんなに欲しがらなくても「与える」「愛する」ことができるはず、と。
だから「非合理で面倒くさいこと」を、料理に限らず、頂いたお仕事、掃除、肌のお手入れ、メールの文章、話に耳を傾ける・・
私が「面倒」「手間」と感じることに対して、あえて取り組み始めた今日この頃です。(ドMかな)
どんな世界を「正解」とするのか、「満足」とするのかは本当に人それぞれ。
けれど私の求める「満足」「楽」は、合理的で手っ取り早い世界では、見つけにくいもののようです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
暑い日が続きますね。お身体どうぞご自愛ください。