「本当の自分」って、どんな自分でしょうね
「自由」って、何でしょうね
「本当の自分」が求める「自由」って、何なのか・・ここんとこずっと考えています
誰かが言っていました、先日の春分は「全く違う自分に生まれ変わる、大きな節目」だと
まさに「Re–Born」。
印象的だった2月の展示会を終え、現実にも新たなステージを求めることとなり、春分という大きな節目も超え
やはり「私の求める自由とは?」を真剣に考え、行動していく時が来ているのだと感じます
それも「今までの私」が考える自由ではなく
「まったく新しい、本当の、魂の」自由。
16年前、出会った時からずっと忘れられない詩があります
わたしを束ねないで
新川和江
わたしを束(たば)ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱(ねぎ)のように
束ねないでください わたしは稲穂(いなほ)
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色(こんじき)の稲穂わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽撃(はばた)き
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音わたしを注(つ)がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮(うしお) ふちのない水わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
座りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風わたしを区切らないで
詩集「わたしを束ねないで」新川和江
,(コンマ)や . (ピリオド)いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩
「魂が揺さぶられる」とはこのことで
どんなに断捨離しても、この詩集をずっと手放せずにいたのは
なんど読んでも、涙が込み上げるのは
「本当の自分」が、それは「魂が」と言い換えてもいいと思いますが
訴えている言葉そのものだったから、なのでしょう
おそらく今の「私」という存在だけではなく、親の世代、ご先祖、前世・・ひっくるめて渇望しているのは
今私が知りたい「本当の自分が求める、本当の自由」だと思うのです
それはおそらく
「魂が訴えている『本当の自分』を、心から愛することができるか」、ということ。(参考作品:愛すること)
「古い概念を終わらせて、超えていかなきゃいけない世代」のアンカーとして、私は今ここにいて
「本質の自由」を追求する道へ、
春分を超えて足を踏み入れているような気がしています。