日々、思うこと

「ありかた」 という一連の「型」

ある話題をきっかけに、中学生の姪っ子を思い出していました

彼女は弓道に打ち込んでいるのですが、「早気(はやけ)が治らない」とお盆に帰省した私に言いました

「早気」とは、矢を射るタイミングがコントロール出来なくなり、早く離してしまう症状です

弓を引ききった状態で矢を放つタイミングを待つ「会」という段階があるのですが、早気とは会を保持できず、意に反して矢を放ってしまう症状

引用元:ハラヒロシ/デザインスタジオ・エル 早気と私と、道。

私も高校時代は弓道部だったので、この「早気」で悩んだことを思い出し

姪っ子の悩みを「わかる…」と思いながら聞いていました

これは弓を引く力が足りないのではなく、心理的なものです

「離してはいけない」と、頭では分かっているのに体が言うことを聞かず

「会」の状態を保てないまま、早々に矢を射てしまう。

結果、的に当たらなくなる。当たっても、それが「美しくない」ことは、当時の私も分かっていました

ここのところ、「白黒つけないグレーな世界で、ものごとを考えてみる」ということを試みていて、

なぜかと言うとずっと

「白黒つけてスッキリしたい」

「早く思い通りにしたい」

「思い通りにならないならもういいとすねる、放り出す、あきらめる」

ということを散々してきた結果、うまくいかないことを経験し

「いい加減やり方を変えよう」と思い至ったからです

それは取り組む何かであっても、人間関係でも。

善悪のハッキリした映画の結末はスッキリするけれど

結局誰が悪なのか、ハッピーエンドなのかわからない、解釈を委ねられるような映画の

「だれか答えを教えて」とモヤモヤしながら、自分なりの答えを探す時間がずっと続く感じ。

それがこの、弓を引き絞った状態を何秒か保つ「会」という「型」の時間なのではないかと、今日ふと思ったんです

ただ「的に当てる」という「一つの結果」を求めればいいわけではなく

射場に入り、矢を射て、退場するまでの全てが「型」であって

それは「どうあるか」「どう生きるか」という、人生そのもの。

その過程で、自分が目指す「的」に向き合う時間が、どうしてもいるのだと。

じりじりしても、もやもやしても、結論を急いで投げ出したくなっても。

その前後の所作、あり方が

矢の刺さる場所、角度、余韻を決めるのでしょう

当時の私はどうして「会」という「矢を引き切った状態で、数秒保つ」という「型」を数秒保つ必要があるのか、

その意義を考えたこともありませんでした

ただ「的に当てたい」「うまくなりたい」「大会で勝ちたい」とだけ思っていたから、

治せなかったのかもしれません

そもそも弓道は、神社にご奉納する「神事」ですから

勝ち負けというより自分の中の神性と向き合うこと。

学生の頃ならともかく、この歳になってもまだ

「美しくなくてもいいからただ的に当てたい」人生をやっていたわけです

全然成長していなかったんだな…と、

鏡うつしのような姪っ子に教えてもらった気がしました。

わたしは今、弓を引き絞っている

「早気」は人類の歴史のいつからはじまったのでしょう

これは私をいれて何億、何兆回目の射だろうか

はやくこの手を離してしまいたくて

勝者か敗者か、白黒をつけたくて

誰かに早く認めてもらいたくて、誰かに愛されたくて

結論を急ぎたくて仕方ない、でも

「会」の型を保つと決めたので

白でもない、黒でもない場所で

何かを探り当てようとしている

そんな「グレーな世界」に、いま

かろうじてわたしはいます

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