年末年始、生まれ故郷の山奥へ帰省してきました
天竜川のほとり、とにかく「秘境」と呼ぶに相応しい場所で・・
近くを通るローカル線(飯田線)も「秘境駅の銀座」と呼ばれるほどです
なんでも昔は「隠れ里」だったという言い伝えも残っており
「隠れ里なら仕方ないか」なんて妙に納得したものです。
そんな過疎を通り越して限界集落となりつつある私の実家ですが
どうも最近、この土地の持つ「目に見えないなにか」が気になるのです
それは昨年手に取った本で偶然知った、地元の神楽が縄文的だったという気づきから始まり
7月の個展が始まる頃にはかなり、はっきりとした感覚があり
ここ数年のうちに「見えないもの」に敏感な方たちとの繋がりも増え、彼女らはこの土地の写真を見ただけで
「凄い場所ね」と言うのです
私は彼女らほど敏感ではないと思っていますが・・ただ、ずっと昔から不思議に思っていたのは
なぜか縁のない人まで、ここ(特に私の実家のある場所)に
「妙に惹きつけられる」ということです。皆ここが好きで、なぜか訪れたくなる場所のようです
「一体この吸引力は何なんだろう」とは、思っていました
先日帰省した時「いつもながら気持ちのいい場所だな〜」とは思ったのですが
それと同時に今まで感じなかった「凄み」のようなものを感じました
それは神の島と言われる沖縄久高島のイシキ浜だったり
金沢にある白山比咩神社の、門前町の月夜のような。
「あの場所に似ている」
まるで「現世」(この世)でありながら「常世」(あの世)のような
あの境界の空気感だと思いました
「常世」(とこよ)とは「あの世」でもあり、海のはるかかなたにある(不老不死の)理想郷(ユートピア)という意味もあります
そんな理想郷のような常世の空気感に、皆が不思議と惹かれてくるのかもしれないと
今回の帰省で初めて思い至ったのです
そんな境界の場所は陰も陽も混ざり合い、「ユートピア」と「闇」が同居していて
私はその場に癒されつつも、自分の「闇」をそこかしこに感じ取ってきました
親との対話で感じた、自己信頼へのゆらぎ、隠れ里のような閉鎖的な世界から枠を大きく外れていくことへの強い畏れ、親とよく似た選択をしているカルマのループ、真っ白でいたいのにいられない自分への嫌悪感。
こんなに空は青くからりと晴れて気持ちの良い空気のはずなのに
胎内のようなこの土地でエネルギーを充電してもらっているのに
羊水はとても濃厚で長くは息苦しく、
大好きな場所なのにすぐにでも逃げ出したくなるような感覚も常にあり
東京駅に帰ってきた時、故郷を離れる寂しさよりも、どこかホッとしていました
今までうっすらとは感じていたものが、はっきりした理由はおそらく
「長年見なかったことにしていた自分と本気で向き合う」ときが来ているのだと思いました
だからあの場所は、愛情をもって露わに闇を見せてくれるのだと。
ここにも私の作品のテーマである「二元的なものの統合」があるのですが
私はこの先、
ほんとうはどうなっていきたいのか
ほんとうは誰と生きて
ほんとうは何を幸せと思っているのか
それをどれほど、望んでいるのか。
そんな、闇に隠れて見えにくくなっていたもの、目を背けたかったものとの対話の先に
光と闇、陰陽の統合があり
ユートピア、ほんとうのEden(楽園)がある。
そんな楽園の創造主は
やっぱり自分であり、
やっぱり男女の、もう一人の片割れとの
いわゆる「正しさ」「常識」の先にある、制限を超えた共同創造なのだと思うのです
周辺の神社にはなぜか、2本の木が合体した御神木が多く
これらの写真を見た方が
「『元は私たちは一つなんだよ』と教えてくれているそうです」と
コメントしてくださったことが印象的です
そういえば、実家にも2本の合体した杉の木が
かつてあったことを思い出します
あの世もこの世も、見える世界も見えない世界も、生も死も、光も闇も、男も女も過去も未来も、常に今、ここにある。
そんな事を感じた、今回の帰省でした