作品のこと

縄文とは、デジタルとは、コミュニティとは

「縄文とは?」「デジタルとは?」「コミュニティとは?」

ということについて、あらためて深掘りをする機会をいただき

現時点で一つの結論に辿り着きました

でも、その解釈は千差万別、ひとそれぞれ。

あくまで私がいま感じる「縄文」「デジタル」「コミュニティ」ですが、それは

「縄文」=「本当の自分」

「デジタル」=「本当の自分と繋がるための環境・ツール」

「コミュニティ」=「マツリ」。

「本当の自分」は

「もう一人の自分」「根源的な自分」「(表向きの今風な価値観の自分に)まつろわぬ自分」とも言えるかもしれません

本当の自分に出会いたいから、いまの自分に違和感を感じたから

自分がやりたいことをやってみた先に、行動した先に

デジタルツールを介して出会った。

出会うこともなかったであろうあの人と。

本当の自分をやりたいから、仲間と一緒に何かをやってみた。

話をしたら楽しいことが閃いたから、一人でもはじめてみた。

「なんだかわかんないけど」「出会えてよかったと心から思える」。

「縄文的な」「デジタル」「コミュニティ」というものは、そういうものなのではないかと。

だから、仲間と繋がることはあくまで本当の自分に繋がるための「ヒント」であって、

答えはすべて自分の中にある。

本当の自分を見つけるヒントをくれる、かけがえのない出会い。

本当の自分を知る可能性を秘めたコミュニティ。

表の自分(現代の自分)と、裏の自分(縄文的な、本質的な自分)が、繋がった時

はじめて、他と(本当の意味で)つながりができる。「相手も自分」だとわかる。シナプスが繋がる、より大きな循環が起きる。フラクタルが広がる。

結局、自分が「最小単位」なんですよね…

ということに、最近ことあるごとに思い知らされています

どれだけ「外側」に求めても「自分」に戻されてしまうので笑

「これを持っていれば大丈夫」「ここにいれば大丈夫」「この人が私をなんとかしてくれる」

そんな依存的な私がことごとく振り払われる。

そういった事象が、笑ってしまうくらい目の前にあらわれる笑

だから「やっぱ、そういうことなんだろうな」と。

外側だけに目が向いていると

どれだけ表面上で繋がってみても、なかなか本当の自分は見えてこない。

でも、今まで繋がれなかった人とご縁がつながり、自分を知るヒントが増える。

「本当の自分」と繋がる可能性を、デジタルというテクノロジーが広げてくれる。

だから、「ほんとうの自分と繋がるためのシナプス、手段がデジタル」なんだと思います。

みんな、本当の自分を知りたい、見つけたい、戻りたい。

(そうでもない、という人もいるかもしれませんが遅かれ早かれ同じことかと)

だからそれを探してここがいい、この人がいい、と「ピンときて」それぞれのコミュニティに集まるわけで、

「ピンとくる」コミュニティは人それぞれ、どこでもいいと思うんです

本当の自分と繋がることができるのであれば。

「本質はわかりにくい、不可解なもの」

そう、私に教えてくださった人がいます。

縄文土器や土偶を見てください、あのわかりにくさ、不可解極まりない造形。笑

あんなんで煮炊きとかします?

あんな造形、思い付きます?普通。

と、現代の私の価値観では思ってしまうんです。「使いにくくてしょうがないじゃない、洗いにくいし」

みたいな笑(いえ、普段の食事には頻繁に使わなかったかもしれません。それにしたってね)

だから既存の価値観のままでは「縄文」=「本当の自分」は、なかなか理解できないものなのではないかと。

「縄文はわけわからん」「本当の自分はわけわからん」。

でも、どうしてこんなに心惹かれるのか。魂を揺さぶられるのか。

どうして自分の意思とは、ほぼ関係なく縄文っぽいことをやることになったのか…(私の場合。)

縄文の人たちが作り出した造形は、思い、願い、そのままが溢れています。

根底から血湧き肉躍るような躍動感。

自分の常識、価値観、そういうものをぶっとばして「ただ踊れ」と言われているようです

私は地元の伝統芸能「花祭り」にも、縄文つながりで目覚めてしまい

「マツリ」というものが私のひとつの重要な要素となっているのですが

この「マツリ」こそ、縄文だと思っています

夜通し踊る。眠くても、寒くても、トランス状態で踊ってしまう。

親子代々踊ってしまう。それが700年も、山奥で続いてきました。

(鬼の)面を着ける瞬間、ずっと近くで聴こえていた太鼓や囃している声が遠くなって、本当に遠くの世界に行くような感覚になるんだよね。300年、400年と、代々の人がずっと着けてきた面を、自分も今、着けとるっていうのが不思議でしょうがないんだけど。それを着けて、異世界に行くというか。あの世に行っちゃう、無事に舞ってこの世に還ってこれるかなって。畏怖っていうのか、怖いような感じもあって。
でも舞庭に出たら、もう何も考えられんね。とにかく夢中で舞うだけ。

引用元:祭りには、その人の存在そのものが、光り輝いて在る。愛知県・東栄町で700年続く山里の神楽「花祭」にみる、祭りがはぐくむ土地との結び、ひとびとの環

純粋な思い、祈り、願い。込み上げる衝動。普遍的なもの。

その太鼓の音を、笛の音を聞いたなら、私の中のDNAも「踊れ」という。

私たちの中の、太古の血が騒ぐ。

それで「なんかわからんけど楽しそう」と、一緒に踊る人が自然と集まってくるのが、

縄文的なスピリットであり、集合したものがコミュニティなのだと思います

不可解で、わかりにくい。

「常識」で考えたら、真逆。

「価値観」みたいなものも超えて「わけわからん」。けど魂が揺さぶられるもの。

本当の自分が思考を突き破って呼び起こされるようなもの。

わたしはいつも、そんな表現がしたいと思っています。(かわいく笑)

だから、いつも「本当の自分」と繋がりたいんです。

やっぱり、ひとつになりたいのは他でもない「自分」だった。という笑

自分と一つになれば、他とも自然とひとつになれる。

そんな気がするのです。

この深掘りをさせていただいたことで、気づきをたくさん頂きました。

まだ道半ばではありますが、このような機会をいただいていることに感謝でいっぱいです。ありがとうございます。

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