作品のこと

女性は愛されるのが先か、愛するのが先か

私は自身の作品のテーマに「二元的なものの統合」をおおもとに掲げていますが、それは「男女」というものの関係性の追求でもあります。

この問いの答えを先に言ってしまうと、

「女性である自分は【そもそも愛されていた】ことに気がつき、そのときはじめて、愛することができる」。だから【愛されるのが先】だと、最近思うのです。

ある人から先日「愛されるよりも愛することが大切です」とアドバイスを受け、その時は

「えぇ…愛するよりも愛されたいなぁ…」

と思ったのですが笑

「そもそも愛されていた」から、愛されたいと思う必要はなく、「愛することが豊かさを生む」のではないか、という気がするのです。

「愛する」とはどういうことなのか考えた時、

「相手のことをとても愛しく感じ、一緒にいたいと思う」この気持ちは恋愛と同じだと思うのですが、「一緒にいてくれないから」「立場が違うから」「お金がないから」…=「だから愛せない」という「見返り」「交換条件」「駆け引き」が恋愛であって、

「相手がどこにいようと、どんな立場であろうと、どんな過去を持っていようと関係ない。全部受け入れて今この瞬間瞬間の、その人を無条件で、どうしようもなく愛する」。だから時間も空間も関係ない。その人が望む、幸せな状態でいてくれたら、自分も満ち足りて幸せ。

「愛する」とは、本来そういうものなのではないかと…(そこまで自分が到達しているかは別として)。

だから、ただただ「愛されたい」「女性は愛するよりも愛されるべき」という表現は「そもそも愛されていることに気がつかず満たされていない欠乏状態」をあらわしている気がします。

そうではなくて「女性としての自分は100%といわず200%、ひとりの男性(魂の片割れ)に【すでにとことん愛されていた】ことを知る」ことが大前提にあって、

結局自分をそれだけ完璧に愛してくれていたのは、外側の誰かではなく「自分自身」だった(自分=もう1人の自分=魂の片割れ)と気がつく、ということなのだと思います

この神の仕組みを思うと「片割れだけでは気がつかないようにできている」のだと…つくづく思います。だからひとつの魂は男女という性に分かれて、何度も転生しながら経験を積み(例えば裏切られたりする辛い経験とか)、相手を探し、再び統合することを目指すその目的は「本物の愛を知ること」という話も納得します。

女性は器(縄文でいうと土器)ですので、女性の器が整っていなくて穴だらけだったら、男性が一生懸命愛を注いでも注いでも満たされません。そしていつまでたっても、男性も女性も欠乏感から抜け出せない。

まずは女性としての自分と向き合い、ご自愛することで自分の器を整え、愛を注いでみる。怖がらず、自分を好きになるようにしてみる。

そうして整えられ、満たすことのできる器になってはじめて、男性からの愛を受けとることができる。器から溢れ出る女性の愛で、男性は豊かさを享受するのだと思います。

大きく経済が動く場所であっても、日々の何気ない家庭内の豊かな営みであっても、

そこには男女の共同創造があり、それは本当の魂の片割れ同志(ツインレイ)でなければ成せないことだと思うのです。

おそらく、それは宇宙の理(ことわり)。

ニンゲンも、本来はそういう仕組みなのだと思います。

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