「こんなの縄文と言えない」
たとえば学術的に詳しい方から、そう言われたとしたらなんも言えない。笑
それでも「縄文のアートをやっています」と名乗らせていただいているのは
「縄文人のクリエイティブをお借りすることで、ほんとの私が表現できる気がする」
そして「自分を知ることで、ようやく自分を好きになれそうな気がする」
そう、思っているからです。
以前のブログでも書きましたが
私の「本当の自分」は、縄文にヒントがあると思っています
(blog:縄文とは、デジタルとは、コミュニティとは)
縄文を見て感じた第一印象は
「これでいいんだ…」でした。
私の「すごい」の価値観は、たとえば
写実的な絵、幻想的な絵、本物そっくりな彫刻。
「自分はとてもマネできない」ような、「自分から遠い」ものが「すごい」。
「自分でもできそう」、「自分に近い」ものは「すごくない」。
そんなわたしが博物館で土偶を見た時「あれ…?これでいいのかもしれない…」と思いました
「これは私に似てる、私に近い」。
「でも好き」と。
実際、ものすごく超絶技巧の土器は私も「無理、とてもマネできない」と思います
これは当時の超絶技巧をやりたい縄文人が作ったのだと。
それよりも私は、博物館のケースの中にうやうやしく飾られた、
「しゃこちゃん」とか「ビビちゃん」とか
ニックネームをつけられ愛されている、ゆるキャラのような土偶に魅せられました
その他大勢、名前もなく、目と口しかないカケラのような土偶たちにも。
それらが「技術的に凄いか」と言ったら、お世辞にもそうとは言えない子も。
でも、そんなところがすごく好き。じつは超絶技巧の、国宝級の土器や土偶より、ずっと見ていられる。欲しい。笑
これこそが私の魅せられた縄文でした。
「これでいいんだ」と思ったとき、
何が「これでいいんだ」と思ったのか正直わかりませんでしたが
妙な幸福感、安堵感。
「私も、これでいいんだ」という
自分への許しのような感覚。
それは「自分のことを好きになれそう」という
希望、
と言ってもいいかもしれません
それは縄文について精通している方から見たら、
「全くでたらめ」かもなぁと思うのです
縄文について探求することも大事だと思いますが
私にとって縄文は「これでいいのだ」なんです、「こうあるべき」じゃない。
「ほんとの自分に出会っていくために、本当の自分をもっと好きになるためにやる」
それがいまの私にとっての「縄文」なんだと思います。
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